クラス文集に思うこと

2月も終わりだ。
石垣島で過ごした正月の三が日から2ヶ月を数えようとしているのだから、時間の経過は本当に早いと思う。あと1ヶ月もすれば、春休みを迎え、いよいよ受験生となる・・。
先日、クラスで文集製作の一環としてアンケートが配られた。「〜な人」という問いに最も該当する人の名前を答える形式だ。見れば授業中よく寝ているひと、結婚したいひとと言った平凡なものから、ギリシャ神話に出てきそうなひと、水着が似合うひと、などと回答に窮するものまであった。
思い返せば今から約3年前、中学の卒業文集でも似たような(というかほぼ同じ)取り組みをしていた。(私の通う学校は中高と続く一貫教育である。習熟度や成績を加味したクラス編成がなされるのだが、私が属するクラスは中3時の顔ぶれとそう違いはなく、文集の編集メンバーもほとんど変わらない。高校から進学してくる生徒が若干入ってくる程度だ。)
そういう類のランキング、お世話になった先生方からのメッセージ、そして個々のプロフィールを載せており、編集メンバーの力量もあって、なかなか充実している出来栄えであった。今読み返しても、なかなか飽きさせないものだと思う。
さて、プロフィールの中に、当時の担任・副担任へのメッセージ欄がある。この担任というのが、2年間お世話になったひとで、でもその割には、私は「英検1級とります!」としか書かなかった。副担任にも同じような感じで「TOEIC730点とります!」と書いた。ちなみに、どちらも担当は英語だ。というか、英検1級とTOEIC730点というのは、どうも不釣合いな気がする。。TOEIC730点はとれても、英検1級というのは、高すぎて届かないんだろうなあ。どちらにしろ今の私には高嶺の花に群がるハチのようなものなのだろうけど。(何だそれ)
この担任というのが、また人がよく、中学卒業後も何度となくお世話になった。3、4回と英検の受験料の前借をお願いしたりもした。それゆえ、英検1級とりますなんて軽薄で胡乱なメッセージを残した3年前の自分の青さを、愛おしくも、また恨めしくも感じてしまうのだ。読み返すたび、左心房が痛むのである。くり返し説くが、私は英検1級どころか準1級ですら難しいと感じるレベルだ。

ところで、その人のよい担任はまた、食、いや残飯(の利用)に対する造詣が深かったと思う。給食で残ったパンや牛乳など、個包装された食べ物は絶対に捨てなかったし、日々大量に余る米飯も、自ら率先しておにぎりを作り、皆に配っていた。私自身も何度かおにぎりを頂いたことがあり、放課後ちょっと小腹が空いたときなど、なかなか重宝していた。
「いかにして残飯の発生を抑えられるか」を常に、少なくとも給食時間中は常に、念頭に置いて動いている(ように見えた)先生に対し、尊敬の念を持っていたのは私だけではないようだった。前述の文集の中で、クラスメートのS君が先生に宛てたメッセージにこうあったのだ。

  「食べ物を粗末にしない姿勢には共感しました」

初めて読んだとき、なんというか、吹き出してしまった。S君が特別、先生が作るおにぎりやパンや牛乳の恩恵にあずかっていたわけでもない(ように見えた)。元々食が細いほうで、むしろ積極的に残飯を作り出す側ではないかと私は踏んでいたからだ。
加えて、文章の格調にも原因があると思われる。私の言葉では上手く説明できないのだけれども、言い得て妙、というか。
彼、S君はすこぶる賢かった。特に数学への学識は素晴らしく、小学生のとき既に中学への数学、或いは高校への数学を愛読していたという逸話からも彼の抜きんでた資質が伺える。(注:私の県では、「中数」「高数」を読む小学生など皆無に等しい。ゆえに彼のようなひとは珍無類の印象を受けてしまうし、また実際そう扱ってしまう。都会ではそんな小学生など、決して珍しくないというのは至極承知だが、致し方ないのだ。彼のような存在を賞賛せずにはいられない私の県は、極めて低い学力レベルにある。)ただ中学卒業後に彼は惜しまれつつも転校していった。今は鹿児島にある某有名進学校で元気にやっていることだろう。かつて私が目指した、東大合格に向かって・・