医師への道

今、私に数学を教えているのは副担任のO先生だ。
O先生の授業の構成、展開の仕方は、今まで出会った数々の先生の中でも断然トップ、ダントツに分かりやすいと思う。二の句がすら、すら、すらと淀みなく出てくるし、着眼点がユニークでありながら、非常に単純明快かつ簡便な解法を教えてくれる。私のような慢性的な数学アレルギー患者でさえ、(彼の)数学の授業が待ち遠しいと感じる程だ。
彼を知って半年ほどたつが、私の中では、どうも彼は頭が良いのではなく、頭の回転が早く、賢く生まれてきた人間だという結論に達している。「計算は苦手」と称してはいるものの、板書に計算ミスの跡を見たことはまだないし、生徒の集中力を途切れさせないために、細切れに、間髪を容れずつぶやくエスプリがまた愉快で、ツボを心得ているのだ。もしかするとただただ謙遜しているのかもしれないが、計算力に不足があるようには見えない。

そんなO先生の最終学歴は岡山大学医学部医学科卒業。この事実を知ったとき、私はとても驚いたのを覚えている。少なくとも国立の医学部に合格しようと思ったら偏差値68以上を要するという。私の地元の三流国立大学の医学部ですら、東大理1と肩を並べる難易度らしい。(少なくとも、地元の医学部は、岡大どころか他大よりは、難易度、倍率ともに考慮しても入りやすいらしい。実際、最近まで国語と英語への傾斜配点が高く、数学の二次試験レベルも標準レベルだというわけで、全国でも有数の"文系向き医学部"として格好の漁猟場だったからだ。そんなわけで、岡大医学部は理1に肩を乗せるレベルだと考えられる。<何だそれ。)
医師免許を取得するには医学部卒が絶対条件だが、教員免許状は医学部じゃなくとも取得出来る。わざわざ偏差値70同士の賢者の戦いに身を投じなくとも教師などなれるのだ。ゆえに医学部出身の教師となると、これはもう反陳腐な世界である。1年次の数学担当の教師が東大の院卒だったこともあって、東大出身の教師が別段珍しいとも思わないのだが、医学部出身の教師というのはすごく貴重だと思う。
芥川賞作家の南木佳士は医療と創作活動を両立させているという点でこれまた非凡でないものを感じる。珍しいなァと本当にそう思う。彼は医師を続けているが、O先生は医師になることを拒んだ。それだけに、何故O先生が医師の道を断ったのか興味が沸くが、同時に、道を断った程の壮絶な(?)過程が確実に存在するのだと思うと、易々と尋ねられないでいる。医学部卒業後の話は耳にしたこともあるが、なぜ医師への道を閉ざしたのかは未だ不明だ。いや、もしかすると敢えて賢者の受験の集いに参加したく、教師志望でありながら医学部を志望したのかもしれない。まあなきにしもあらず、ではあるが。(しかし、仮にそうだとしたらなんとまあ暇人であることか)もしくは向き不向きを悟ったのか。
教卓の前で熱弁をふるうO先生を見ていると、「このひと、昔やった献体解剖とかで人間の体なんて見慣れてるんだろうなあ。なんか見透かされてるようで厭だなあ。」なんて授業とは正反対のベクトルへ考えが働いたりする。私自身が今この場で倒れても、先生は救急手当てを施せるのだろうか、などと考えてしまう。

一度でいいから医学部を蹴ってみたいものである。誰か、蹴らしてくれませんか?