夏目漱石を読む

電車女ですが、何か?


何の酔狂か夏目漱石「野分」を読んだ。
一行感想。表現が難し過ぎる。初見の表現が多く、辞書が傍らにあったから何とか読み進めることが出来きたようなもの。(これは私が持つ日本語の知識と密に関係するんだろうけども・・。以前チラっと三島由紀夫の本をかじったことがある。彼の難解な表現、節回しにもお手上げ状態だったが、今回のそれはもっとだ。文体がカチコチに凝り固まっているような気がする。さすが?英文学者)本当に、「ただ字面を追いました」という感じなので、登場人物の内面や情景を想像する余裕など皆無だった。本を読むのにこんなに労力を要したのも久しぶりだ。まあ、そもそも読書する習慣がないから疲れるのも当然ではある。また読みたいとは思えない代物です。と言うか2度読みしたところで深く読めるとも思えないし・・日本語に対し知識が豊富で敏感な人が読むぶんには面白いかもしれないが。まあ、おって書こうと思います。

ということでおって書いてみる。まず難解な表現について、一部引用。


『馬車の客、車の客の間に、ただ一人高柳君は蹌踉として敵地に乗り込んで来る。この海の如く、、、』
蹌踉って何ですか? そう思って調べた。"蹌踉として"・・よろめくように、の意らしい。日本語は漢字を見れば大体の意味が分かるというけれど、蹌も踉も初めて見たので全く見当がつかなかった。もしルビが振ってなかったら漢字字典から調べる羽目になっていた。ありがとうルビ。

次に挙げる二文は、それこそちんぷんかんぷんなもの。飲み込めるかと言いたい。

『不可思議なる神境から双眸の底に漂うて、視界に入る万有を恍惚の境に逍遥せしむる。迎えられたる賓客は陶然として園内に入る。』
『富と勢いと得意と満足の跋扈する所は東西球を極めて高柳君には敵地である。』

『不可思議なる〜』は読点に到達するまでも大変だった。双眸といい逍遥といい陶然といい一体何て意味なんだ?逍遥って坪内逍遥??今どき"跋扈"なんて誰が用いるんだろうか。東西球も然り。文章自体がまどろっこしい。こんな格調ぶった文章じゃなくとも伝えたいことは伝えられる!「富、勢い、得意、満足がはこびる所は世界中どこだって、高柳君には敵地である」。これでいいじゃないか漱石よ見習えこのように簡潔に書きたまえ。しかし前者と後者じゃ、偏差値で言うと30は差がありそうだ。こんな高ビー(古)な文章じゃ読者ウケもさぞ悪いと思うが、実際はどうなんだろう。
私は、同じ格調ぶった文章なら中島敦を選ぶ。漢学の素養の深さにはただただ驚くばかり。神経質そうな顔かたちも大変よろしい(笑)また、あの夭折加減も伝説的だ。死後評価が高まったことで、彼の神秘性に一層拍車がかかったと思う。どうせ脚注に頼るんなら中島敦の方がいいな〜。と言うより、まさか夏目漱石を読んで中島敦を再評価することになろうとは。運命とは皮肉なもの(違)すいません漱石先生。

いつだったか「敦の深層心理に触れたい触れたい!!」そう思って本屋で探したことがある。しかし山月記・李陵しか置いておらず、寂しい思いをした(中島敦以外にも、その本屋の貧弱な品揃えに何度涙したか分からない)。早く狼疾記やかめれおん日記を読みたいが、もう青空文庫で読むしかないかなあ。